は唯一の夏目漱石の自叙伝的小説。
漱石の分身である健三とその妻・お住の夫婦を中心にして、健三が金をしぶしぶ出さざるを得ない養父母、姉夫婦、舅と健三との関係を描いています。
描かれている健三は、ロンドンから帰国後「吾輩は猫である (新潮文庫)
しかし、そんな健三・漱石もかつての養父母がお金を無心しにくれば、縁が切れたはず、金などやりたくない、と思いつつ、結局はやってしまいます。この部分に結局は合理的になりきれない健三・漱石の真の姿が滲み出ています。そして、「いやならやらなけりゃいいでしょう」と正論を言うお住に対し、理屈を述べ、あるいは述べずに「それでも俺はやるんだ」と言い張ります。
さらに健三・漱石が合理主義的になれなかった悩みの深いところは彼の生い立ちにもあると思います。健三・漱石は小さい頃に養父母のもとに送り出されます。養父母は義理の両親であることが不安で小さい健三・漱石に「本当の両親は誰だい?」と何度も言い聞かせます。そのくせ養父は女を作って家を出て行き、養母も再婚をし、健三・漱石は実家に戻らざるを得なくなります。しかし、実家では姉と兄がいることもあって健三・漱石はやっかいもの扱いをされるのです。
作品中には健三・漱石が大切にされた記憶が表現されています。しかし、結局のところ彼は捨てられているのです。そんな彼はいくら矛盾していようが日本的な義理と人情の世界には戻ってこられません。もとより義理と人情の深い世界に浸っていないのですから。かといって日本で曲がりなりにも育った自分には合理主義にも浸り切れない・・・ここが健三・漱石の最も深い悩みではないでしょうか。
この近代的合理主義に対する姿勢こそが夫婦の不仲にあり、また健三・漱石自身の悩みの中心です。この悩みがあるからこそ、漱石は小説を書き始めています。
道草は漱石の最後の完成作品とされていて、漱石らしからぬ自然主義的な書き口をしています。当時自然主義が流行っていたことなどもありますが、漱石がなぜこのような書き方を選んだかはわかりません。しかし、自叙伝的小説を書くならば、この時代しかなかった、ということでしょう。
漱石が描いてから90年近くたっても、日本人はやはり合理主義になりきれません。むしろ漱石と違って意識的でないだけ、質が悪いかもしれません。漱石はまったく古びていません。
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